大山です!昨年の暮れ、“友達”に書いてもらったライブレポートが好評だったので、
【サイト開設記念】友達に“ワンマンのライブレポ書いて”って頼んだら、すごいの返ってきた。
調子に乗って“ライナーノーツ(バンドの紹介文みたいなやつ)書いて!”って頼んだら書いてくれました!早くみんなに読んでほしい!
ということで、前回同様このブログに第二弾“マリの紹介編”として載せちゃいます!
「ライナーノーツ書いて〜」
乱暴にいってしまえば、この「無垢さ」がマリの真髄だ。〜(完)〜
…というわけにはいかないので5分だけお付き合いを。
「⼈⽣でライナーノーツを書く⼈がこの⽇本にどのくらいいるのだろう?」
と、⼾惑いながらも教科書を求め、抱えたCDボックスの埃にむせる俺。
「このアルバムが俺の⼈⽣を狂わせたな…」などといちいち浸っていると捗らない。
無理やり視線をMacBookに戻し、⼩さな窓に「マリ」と叩きこむ。
しかし、また問題発⽣。やはり捗らない。
「改めてしっかり聴こう」とメモアプリを開いていても、
いつの間にかMVの⽅をみている。指ではなく⾸が動いている。
マリの世界にひっぱられる。
バブル崩壊。平成元年⽣まれ。失われた30年。ゆとり教育。
「本当に“ゆとり”はあったのか?」
そんな(≒損な?)時代に⽣まれたなぁ、と振り返る。
上からは「ぬるい」と揶揄され、下からは「優秀で未知なるZ世代」に突き上げを喰らう。
平成を⽂字通り“ロックンロールしながら”⽣きていた。
ロックに騙され、⽀えられ、翻弄されていたら、令和だった。
マリは全員平成元年⽣まれの5⼈組。
さぞ「どうせ、なかよしこよしバンドだろ?」と思うだろう。
いやいや、ぜんぜん。
ステージングは5⼈ともバッラバラ。
各々が好き勝⼿やっている。同じステージ、別の世界線。
vo.⼤内 啓介のデニムからはヒッピーの匂いがする。ボトムスのサイジングに彼のアイデンティティが現れている。腕を組み、チャットするかのように唄う。伸びやかなハイトーンボイス。そのとき、彼の脳内メモリにあるのはメンバーではなく、きっとリスナーだろう。
drms.茂⽊ 左は、真冬にサンダル姿。なんかちょっと、Arctic MonkeysのMatt Helders的な?⼀⽣ドコドコドスドス、マイペースに、バスドラムをニヤニヤしながらハダシで蹴り続けている。ドラマーはこうでないと。
gu.⼤⼭ 雅司は、⼀張羅ならぬ、⼆張羅。スーツで現れ、レザージャケットで帰る。普段は朴訥で、時折、暗さが垣間⾒える彼。ステージングは、打って変わって、シャ●でも打ってんのか?と、そのギャップに度肝を抜かれる。ジキルとハイド。
ba.ひっさ。「楽器は顔で弾く」を地でいく『Mr. Perfect』。えてしてベースは「顔で弾くもの(偏⾒)」だが、顔は顔でも、彼の場合は「ドヤ顔」ではなく「はにかみ」だ。レーダーチャートが綺麗な正五⾓形の彼は、LIVE中、視野が⼀番広い。
gu.⿑藤 雄介は、元Måneskinのバンドメンバー。…というのはもちろん嘘だが、彼の加⼊により、“マリのワザ” が圧倒的に増えた。バンドをソフィスティケイトさせたのは彼だ。
gu.⼤⼭と会話するかのように差し込むギターの⾳の粒が、曲を⽴体的にする。
しかし、こんなにバラバラでも、⽣きてきたコンテクストは近接している。
それは、時代・環境といった単純なものではない。
30年間、鬱屈し、何度も何度も転けながらも、そのたびに、
「こんな⼟が掴めたよー!」と笑いながら、そして誤魔化しながら、
⽴ち上がり続け、⽣きてきた。
さとりなのか、解脱なのか。
決してニヒルでも、アンニュイでもない、
純然たる、優しさと儚さと、オーセンティックさ。
それらの量⼦が、全曲、どの⾳の波にも絡みついている。
だから、どの曲にも通底する「マリっぽさ」を誰しもが初⾒で感じられるはずだ。
それはメロディかもしれない。それは詩(うた)かもしれない。
そして驚くべきは「曲ごとに異なるジャンルの広さ」を同時に成し得ていること。
ガムであり、スルメでもある。
キャッチーだと、王道すぎる。
キッチュではなく、やはり、オーセンティックなのだ。
この引き出しをつくり出せるのは、彼らが30年間も寄り道をしてきたからだろう。
「本を読まないということは、その⼈が孤独でないといふ証拠である」
と、太宰治はいった。
その孤独な回り道を歌詞から読み取るのも楽しい。
例えば、
「流れるときのスピードを 追い越して⾵薫る 僕のもとに届いて 夏に気づく」
でいきなり始まる『On The Run』。
⽿にスルリと滑り込んでくるメロディライン、完璧な譜割に勝⼿に⾝体が動くが、
詩がしっかりとオーセンティックな点に、まずは注⽬してもらいたい。
時空、疾⾛、⿐腔、付着、停⽌、季節、そして予感。
これらをサラッと上記のワンセンテンスに収めて、⽴体的に、四次元でアプローチしてく
る。誰がきいても、そこにある感情に「⾊彩と透明感」を覚えるだろう。
俺は、この曲を初めて聴いたとき、
「なんか、夏⽬漱⽯っぽいな。いや、違うか?」と瞬時に感じた。
そして、2バース⽬にその答え合わせがすぐにできた。
後半でガラッと変わるモーション、モメンタム。そして何より、唐突に出現する“⾊”。
「これは『それから』だ!」そう確信した。
この明治時代から続く「アラサー男性の普遍的かつ、どうしようもない葛藤」を、令和にリバイバルさせ、描けるのは、(作詞)⼤⼭にも近似した歴史があるからだろう。
このようにマリは「リリカルであること」にも真正⾯から向き合っている。
そして、鬱々としているはずのストーリーを持ったこの曲に乗ることができ「最後まで飽きずにサラッと駆け抜けられる要因」であるメロディラインにも流⽯に触れずにはいられない。
後半に、リズムパターン、譜割、⾳数を微妙に変えてくるあたりの抜け⽬のなさ。
これ以上の説明は無粋だろう。まぁ、とりあえず聴いてみて。
こんなふうに、マリの楽曲は、誰もが聴けるKISS(=Keep it short and simple.)をベースにしつつも、テクニカルで、奥深さもあるのだが…
彼らの茶⽬っ気から、たま〜に変化球も投げてくるのでご注意を。いや、お楽しみを。
さて、「VUCAな時代」の令和になって思う。
「ゆとり教育は成功だった」と。
「ロジックや合理主義では弾き出せない」であろう、「利他の精神」という、
⼀⾒すると「コスパ・タイパ(笑)の悪い結論」を、彼らはサッと導けるのだから。
マリはそれを⽇々、散歩するかのようにやってのけている。
曲に乗せて。詩に乗せて。
…だって、これだけみんな、鬱屈してきたんだから(笑)!
最後に。
今、鬱屈するあなたへアドバイス。
マリはいとも簡単にいつでも「お⼿」をしてくれる。
あなたがマリと遊ぼうとしさえすれば。
これから先、彼(=“友達”)はマリの“文才”担当です。
マリについて文章もらったら定期的に掲載していくから、楽しみに待っててね!
大山
Written by “友達”
Photo by カレー・ラモーン